デザインしたくないデザイナのブログ

スタートアップでデザイナ兼マーケタをしてますが、デザインは苦手です。

卒業 それは 君が見た光

そいつが僕のもとにやってきたのは、たしか今年の春ぐらいだったと思う。

たまに足立区の実家から届く、僕宛のDMやら手紙やら、親が入れてくれるりんごやら。

そんな普段通りの宅急便の中に、そいつは鎮座していた。

 

「重要」と印を押された見慣れない封筒。まるで冬山のような威圧的な雰囲気をまとったそいつは、中身を確認するまでもなく、なにかまずいことが起きているのだと僕に直感させた。

 

 

2年ほど前、僕は大学を休学した。

特にやりたいこともなく、フラフラと過ごしてみたら人生どんなに素晴らしいものだろうという大学生にありがちな妄想を抱き、夢と希望を胸に自由という旗を掲げた大航海(実際は週3ぐらい近場の温泉行ってた)へと打って出たのである。

 

それからかれこれ1年半が経ち、なんやかんやして(ここは今後また何処かで)気づけば定職に就き、大学に戻り卒業という名の錦の旗を足立区に持ち帰るなどという夢のような選択肢など、とうの昔に消え失せていた。

 

そうして僕は、中退面談という闇の舞台のような場所に立たされることになった。

かつて中国語を習っていた教諭からの生暖かい眼差しに送り出され、ぼくは早稲田大学を目立たく中退し、社会の荒波へと立ち向かい始めたのだった。少なくともその時の僕は完全にそう信じていた。

 

 

そいつは、あまりにも突然、まるで当たり前の日常の一部かのように、僕の前に現れた。

いつも通りの携帯料金の引き落とし通知なんかと一緒に、しかし明らかに異様な雰囲気をまとって、僕のもとに届けられたのだ。

 

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一瞬どころか三回ぐらい目を疑ったが、そこには紛れも無く「抹籍」という二文字が刻まれていた。

 

驚きのあまりこの画像をツイートしたところ、

 80以上ものふぁぼが得られた。僕が4年の歳月をかけて手に入れた、宝物のようなふぁぼである。

ふぁぼの話はどうでもいい。何故除籍になったのだ。確かに2ヶ月前中退面談を受けたし、除籍になる理由などないだろう。解せぬ。

 

 

日頃から、実家の親は僕宛にとどいた手紙を捨ててしまうことがある。それが銀行からの手紙であっても、早稲田大学からの封筒であっても、なんなら早稲田大学からの休学費用の払込用紙であっても、それが支払われなかった旨と共に届いた督促状でさえもだ。

「学費未納抹籍」のカラクリは、まさしくこの通りであったが僕がこの事に気づいたのは除籍になった後であり、もはや後の祭りどころの騒ぎではない。人生とは辛く悲しいものだ。

 

 

かくして両親子供揃いも揃って高卒となってしまった僕の実家は、今なお仲良く楽しく、時折高卒という言葉を投げつけあいながら、足立区という名のTOKYOが世界に誇るスラム街にひっそりと佇んでいる。もはや帰る機会も減ってしまったが、なんなら近づきたくもない。

 

 

クリスマスまでの毎日が楽しくなるように作られたというAdvent Calendar。その一幕をこんな形で彩ってしまったことは人生をかけて後悔しつつも、飲み会の一発芸として僕の人生を豊かにしてくれることだろう。

井の中の蛙、ITで世界を変える

なんやこのタイトル....既視感と嫌悪感が合わさったような、絵に描いたようなクソタイトルですね。

それにしても今日は暑かったですね。マジ暑かった(38.2℃と書いてある体温計を見つめながら)。

 

21世紀型保険モデルを目指して。英国発の保険のスタートアップ「jFloat」 | Social Design News【ソーシャル・デザイン 公式サイト】

 

ところで今日ツイッターをみてたらこんな記事が流れてきまして、久しぶりにwebサービスを見て「おおー!!」となりまして。

 
このところ(特に今年に入ってから)webサービスで「おおお...!!」ってなった記憶がイマイチなく、理由を考えてみたんですが、昨今のサービスがどれも"小手先感"に溢れてるからなのかなぁと。
 
この"小手先感"てやつなんですが、ちょっと考えてみたところ、今現在の社会的・文化的な文脈に100%沿った上でサービスが展開されていて、社会とか文化のアップデートに直結しなさそうな印象が正体なんじゃないかと思います。
 
ぼくはwebサービスを見るのが好きで、わりと国内外のサービスを観察していたりするのですが、社会とか文化をアップデートするサービスが生まれる過程って、結構パターン化されているよなぁと思っています。
 
1. 今現在の社会的文脈から飛び出たサービスが現れる
2. そのサービスを今の社会になじませたような形のサービスが多発する
3. 2の中からいわゆる"当たり"がいくつか出て、新しい社会的文脈を形成する
 
だいたいこんなイメージ。
すごい感覚的なんですが、1は80%ぐらい既存の枠組みに乗っかりながらも、20%ぐらい現在の社会的文脈からはぶっ飛んでる感じです。このぶっ飛びの度合いが小さかったり、大きくても受け入れられやすかった場合には、1がいきなり当たることもあったり。
 
長いスパンで見ると、「ホンモノの1なんてGoogleぐらいか?」とか思ったりするわけですが、Googleも世界初の検索エンジンではありませんし、一応超優秀な第2フェーズなのかな と思うわけです。
facebooktwitterも、世界初のSNSではありませんし、1は案外目立たず、ぱっとしないまま日の目を見ずに消えていくことも多そうですね。
 
で、どうやってこの1(現在の社会や文化のアップデートのきっかけになるようなモノ)が生まれるのかなぁと考えつつツイートしていたところ、友人のてるてる(以下てる子)がかなり違う視点から話をしてくれたので、備忘録としてトゥギャっときました。ちなみにてる子は別段ITな人ではないのがまたおもしろい(彼はたいへん優秀な地学屋です)。
 
 
ツイートの内容は興味ある方は読んでくれというところなんですが、彼の言うとおり、そもそも僕の言う第1段階にあたるモノが生まれる過程にも二種類あって、ニーズありきで生まれたイノベーションと、余剰から生まれるイノベーションなんじゃねーかと。
 
よく、「モノづくりは日常の負を解決するところから始まる」なんて言われるんですが、案外そうでもないんですよね。個人的には3Dテレビなんかも、誰もテレビから飛び出して欲しいなんて思ってなかったし、後者の典型的なタイプかなーと。あれの場合はまだ大衆的なニーズがあるとも言えないですし、文化的文脈が追いついてるとも思えないので、今後の第2フェーズにずっと期待してます(消えないといいなぁ...)。
 
話しがだいぶITから逸れちまったわけですが、そもそもITが現実社会にどれだけのインパクトを与えるものなのかって話をするにも、まだ日が浅すぎると思うんですよね。あーだこーだ言う人は死ぬほどいますが、Google創業からでさえまだ15,6年しかたってないわけで。
 
相変わらずのきたねえ文章を終わらそうと思うんですが、数日前にCoineyのなおこさんが面白いことをおっしゃってたので引用させていただきます。
 
 
あくまでもネット広告の媒体費の規模感ですが、まだ豆腐と納豆よりちょっと大きいぐらい。自分がどれだけ狭い世界に夢中になって生きてるか噛み締めつつ、とりあえず風邪を治したいなぁと思った日曜の夜でした(38.8℃の体温計を眺めながら)。

システム化する世界で「働く」ということ

よーし、マジメなこと書くぞー!
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というわけで、今回はこれからの「仕事」ってどうなっていくんだろうねってゆうすごく長い目で見た話をしようかなと。


労働が「システム」に代替されてゆく世界

よし!見出しがまじめ!これは勝った!
散文的にスタートすると、これからの世界ってどんどんアルゴリズムによって労働が代替されていって、人間がするべき仕事の総量ってどう考えても減ってゆくわけです。

例えば、経理のおばちゃんが3人がかりでゴリゴリExcel叩いてた仕事が、フラッと来たエンジニアが2日で作ったシステムに代替される なんてことは今でも結構あったりします。
人間はミスをするので、この場合どうあがいてもそのシステムを導入して、おばちゃん達には別の仕事をしてもらうのが得策です。他に仕事がなければ、その方々は事実上仕事を失ったことになります。

これが、労働がシステムに代替された状態です。こんな動きがますます進んでいく世界で、ぼくたち人間は最終的にどんな仕事をしていくことになるのか というあたりを考えてみようかなぁとおもいます。


アルゴリズムによる侵略の果てに人間の仕事はあるのか

さて、これは難しいですね。難しいです。アルゴリズムは日々進化し、「人間にしかできないこと」を可能にしています。
システム化されにくそうな極端な仕事として、例えば画家や小説家のようなものが挙げらそうです。
人に感動を与える絵を描いたり、ハラハラドキドキするような小説を書く。これは機械には難しそうです。当分代替されることはないでしょう。

しかし、解析技術の向上によって、感動や興奮を与えるパターンの分類が進むと、それを模倣したり、組み合わせによって新たな感動的なものを作り出したりすることがやがては可能になるでしょう。

いつの話をしてるんだお前はと思われそうですが、極端な部分から逆算しないとこーゆー系の結論は出なかったりするので、あえて完璧なシステムが作られた後の世界を想定しています。

こうなると、人間のすべき仕事というのは限りなく少なくなってきます。娯楽として旅行に行く などといった行為は残るのですが、その旅行は過去の旅行者の満足度を元に作られた完璧な旅行プランをもとにしているでしょうし、そこに人の「仕事」が入り込む余地はないと言っても過言ではありません。

結論として、いま存在している全ての「仕事」は限りなくゼロに近づくのではないでしょうか。


仕事がゼロになる未来を前に、ぼくらは何をすべきなのか

そろそろ疲れてきましたね。途方もない話ですし、眠くなってきました。最後に、そんな仕事ゼロ時代の到来を想定した上で、ぼくらは何をして生きていけばいいんだっけ?というあたりを考えたいと思います。

まず言っておきますと、ここまで書いてきたような時代が来るのはまだまだ先なので、今はそんなこと考えずに目の前の仕事をしたほうがいいですよ ということ。

しかし、経理の例のように、システム化の影響で目の前の仕事が必要なくなることは十分にありえる ということを認識し、自分の仕事がどれだけシステムに代替される可能性の高いものか というあたりを考えるのはいいことだなぁと思っています。

また、システムを作る側にまわって社会を効率化するのは素晴らしいことですし、それによって生まれる時間的・人材的余剰は新たな価値の創造にもつながるでしょう(理論上はやがてそれも代替されますが、それはそれと理解した上で...!)。

文章能力のなさのあまりこんな長文になりましたが、結論、システム化し続ける社会においては、中長期的なスパンでアルゴリズムに代替される可能性の低い分野を見極め、そこで価値を生み出すことこそが後で「こんなはずじゃない!」とならない仕事の仕方なのかもしれないですね というお話でした!!

なんか最後なあなあになった!推敲したいけどプロブロガーになる意欲もまったくないのでこれで公開してしまえ!!世界よ、これが「怠惰」だ!!!!!

PVの誘惑とメディアの未来

やあみんな!PVは好きかい?

最近いろいろなスタートアップの方々と会うようになって、やたらと思うのが、「やたらとPVに固執」していたり、「PVを伸ばすことが目的」になっている方が多いなぁと思うのですよね。

もちろんPVが伸びるのはビジネスの成長において大事なことですし、それを批判するつもりはまったくありません。


「PVを稼ぐ」のはビジネスモデルになり得るのか

今回の命題はこれです。そもそもメディアを作ってひたすらにPVを稼ぐことって、それ自体ビジネスモデルとして成立するんだっけ?というあたりですね。

たとえば想像しやすいところでいうと、何らかのメディアを作ってGoogle Adsenseで稼ごうという場合。

PVあたりの売上は最適化なりを頑張って0.2円ぐらいになったとして(そのへんはみなさんお得意の"グロースハック"っすね)、月間1000万PVを集めれば、月の売上で200万円ぐらいになるわけです。オフィスなりもろもろ差し引いて、数人暮らせるかな というレベル感のビジネスに育ちました。

このケースに関して思うところとして、PVあたりのアドセンス収益という変数が限界のあるものである以上(グロースハックに血肉を捧げたとしてもだ!)、PVを伸ばしまくらない限り売上が激増することはありません。

PVにもある程度の限界値(ターゲットの人口とか訪問回数の限界とかね)があるので、成長がストップする瞬間を容易に想像できるなぁ と思うわけです(例えそこから目をそらして戦うのが起業家の使命だとしてもだ!)。

仮にも人さまのお金やら信用を預かったりして会社をやる以上、この「限界点」がすぐに来てしまうようなビジネスモデルは選択すべきじゃないのかなーと思っています。


お前には、PVの先に何が見える...

ひたすら上から目線で書き殴ってまいりましたが、なにもメディア事業を真っ向から批判しようなどとは思っていません。

PVのその先にあるビジネスモデルは、本人達だけに見えていれば良いものだと思っています。

「PV乞食」と言われようが、その先にある最高にワクワクするような何かが見えているのなら、それは素敵なことだなぁと思います。

それが無く、ただの乞食として生きていらっしゃる皆さんは、せいぜいGoogle Analyticsとにらめっこしながら、やがて訪れる終焉の日を、稼いだ小金とともに待っているとよろしいでしょう。


おわりに:そもそもの価値がPVとは関係なく存在するサービス、素敵よねって話

PV乞食のみなさまはもういいとして、最近ちらほらと「良質なメディア」も出てきているなぁと思っています。

どこよりもニュースを深掘りするサイトとか、心にグッとくるような動画をちゃんと集めてるサイトとか。。。(ぼくのブログに取り上げられるのは不名誉でしかないので、名前は伏せておきますが)

こういったサイトは、ビジネスモデルとかいう大人のくすんだメガネで見るべきでもないのかなと。

そもそもの存在自体に大きな価値があって、人の考え方とか生活に良い影響を与えるメディアって、とても素敵だと思います。

「PVが...」とかいう穢れた大人たちに構わず、価値を提供し続けて欲しいですね。(そういう人達に、適切なお金が分配されるべきですけども)

@各位 ハミングバードを何だと思ってやがる...

サイコーの秋まっただ中、そろそろ紅葉も始まろうかというこの時期に部屋に閉じこもってディスプレイと向き合っているみなさま、こんばんは。

今日は、タイトル通りハミングバードの話をします。
この時点で何のことだかわからないみなさんにはきっと関係のない話です、外に出て爽やかな秋晴れの下ピクニックなど楽しむと良いでしょう。

さて、9月にGoogleが正式に発表し、すでに導入済みとのことで世間を賑わせたハミングバードですが、ぼくのところにもいくつかのおじさま方から相談のメールがきましてですね、みなさんこう言うわけです。「何が変わったの?」「なにか対策は?」「リンクとか大丈夫?」「キーワード比率とか、見直すべき?」

で、ぼくも真面目に返事をしているわけなんですが、ずっと「なんか違うな...」と思っていたわけです。

何を気にしてるんだと。Googleがハミングバードに込めた熱い思いはそんなもんじゃないぞと。オレたちの未来が大きく動き出したんじゃないのかと。

というわけで、そんな熱い話しをこのどうせ誰も見ていないブログに書き散らします。興味ある方はぜひ。


まず、ハミングバードは一言で言うと「検索の未来の礎になるアルゴリズム」なんじゃないかと。
いままで検索といえば「新宿 焼き鳥」とか「Mac エンターキー 故障」のような単語を並べたスタイルが定番でした。だけどこのスタイル、普通に考えて明らかに異質というか、不自然な文化ですよね。そういうもんだと叩きこまれて慣れてますが、やはり変です。

これをより自然な形、より口語的な表現であったり感情により沿う形で設計されたのがハミングバードです。

(従来型)
「新宿でうまい焼き鳥が食いたい」→(検索カルチャーに則った言語化)→「新宿 焼き鳥(カチッ」

(未来形)
「新宿で焼き鳥が食いたい」→(そのまま言語化)→「新宿でうまい焼き鳥が食いたい(ポーン」

こんな感じです。
音声認識とかはかなり意識してると思います。口語的な表現がされやすいですし。
あとこれ、突き詰めると、疑問とか欲求のような脳波を受信したらダイレクトにレスポンスを返す みたいな未来までぼんやりと見えてきてニヤニヤが止まらないわけです。

あと、シチュエーションみたいなものも考えてくれるようになっていて、PCで「鍋」と検索した人は家で旨い鍋のレシピが見たい、来週行く鍋の店を探したい、はたまた鍋を買いたい なんてニーズがありそうなわけですが、スマホで「鍋」と検索するユーザーはちょっと意味合いが変わってくるわけです。外出中で、今から食べに行く鍋屋を探してる可能性が圧倒的に高かったりします。

こういうシチューエーションの違いやら感情やらを瞬時に分析して検索結果という形に整形してくれるのがハミングバードの根本的な思想なんじゃないでしょうか。

SEOの実務の場におけるハミングバードへの対策みたいなのは、特に必要ないかと思います。よりユーザーのニーズにマッチしたコンテンツが表示されるようになるよ というだけなので、ニーズのありそうなこと書いてあれば適切なシチュエーションでユーザーに表示されるイメージですね。クソみたいなコンテンツを書きまくっている方々は、まあここでは言及しないことにしましょう。


というわけで、少し離れて見てみると結構おもしろいんだよ、ハミングバード。 という話でした。そんなに得るものもなかったかと思いますので、みなさんはたまには早く寝るなり引き続き秋の夜長を満喫するなりしていただけたらと思います。ぼくはアニメでも見ます。あとあの花の映画、最高でした。ひたすら泣けました。オススメです。

病んでる人が悩みとその解決について考えてみた

このところ少し悩んでいたので、まだ悩み中ではありますがアレなブログを一本。

悩み事とその解決とかそのあたりについてふと思ったことを残しておこうかと。

 

悩みを解決するのには二段階あって、

1. 客観的な要素をまとめて、ロジカルに結論を導き出す

2. 1で出した結論に、感情的な落とし所をつける

 

という感じなのかと。

人間の悩み事なんて超ロジカルに考えたら実際は5秒で答えが出るようなもんばっかりなわけで、いかに2をスピーディかつ1に近いところでできるかが人間としての強さの指標になるんでしょう。

 

で、たまに1と2をほぼ同時かつ高速で行える人がいて、彼らは優秀な脳みそと相当な精神力を持ってしてこの処理をしているわけですね。いい意味で脳内がアルゴリズム化されていて、精神がそれについてきている証です。

 

よくわからなくなりましたが、何が言いたいのかって、人生はつらいですね。

ただ、2に時間をかけるのは人間にしかできないことで、極度にアルゴリズム化された世の中にそこまで好意を持っていない非近代的な自分にはまあいいのかとか考えております。

まだまだ今日も感情の落とし所がつかないので、シャブキメルゼウヒヒヒヒヒヒヒヒとかツイートしますね。